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中山・下総・散歩道

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万葉集にうたわれた真間の手児奈を祀る手児奈霊神堂

手児奈霊神堂 赤い幟と手児奈霊神堂
下総の国葛飾真間の手児奈は万葉集に歌われ、手児奈霊神堂は、広重の江戸名所百景にも描かれ、江戸名所図会では「手児奈明神」と紹介され、万葉の昔から多くの人々を魅了した伝説の美女「真間の手児奈」の伝説にまつわる地です。
二千年程昔の悲しいお話です。むかしむかし、下総国葛飾郡真間に井戸汲みの少女がいました。少女は月が恋するほど、咲く花のように美しい少女でした。出会った人はみんな少女に一目惚れしてしまい、困った少女はとうとう井戸に身投げしてしまいまいした。
文亀元年(1501)真間山弘法寺の七世日与上人が手児奈のお告げによって、手児奈の奥津城(墓)と伝えられる地にお堂を建立したと寺の縁起に記されています。手児奈霊堂は安産、子育て、疱瘡に霊験があるとして、多くの参詣者を集めています。
また藤棚の下には吉田冬葉の「ふるさとの 山静かなる師走かな」と刻まれた句碑があります。手児奈霊神堂の御堂正面の参道脇にはさだまさしさん寄贈の桂の木もあります。

手児奈霊神堂縁起

手児奈

奈良時代のはじめ、山部赤人が下総国府を訪れたおり、手児奈の伝承を聞いて、
「われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名(奈)が奥津城処」
歌ったものが万葉集に収録されている。

手児奈霊堂は、この奥津城処(墓所)と伝えられる地に建てられ、文亀元年(1501)には弘法寺の7世日与上人が、手児奈の霊を祀る霊堂として、世に広めたという。
手児奈の物語は、美人ゆえ多くの男性から求婚され、しかも自分のために人びとの争うのを見て、人の心を騒がせてはならぬと、真間の入江に身を沈めたとか、継母に仕え真間の井の水を汲んでは孝養を尽くしたとか、手児奈は国造の娘でその美貌を請われ、或る国の国造の息子に嫁したが、親同士の不和から海に流され、漂着した所が生まれ故郷の真間の浦辺であったとか、さらには神に仕える巫女であったりする等、いろいろと形を変えて伝えられている。
万葉の時代から今日に至るまで多くの作品にとりあげられた真間の地は、市川市における文学のふるさとであるといえる。
市川市教育委員会

手児奈霊神堂参道脇案内版より

手児奈霊神堂の春

手児奈霊神堂参道の桜手児奈霊神堂赤い幟と桜 赤い幟としだれ桜満開の桜と手児奈霊神堂 手児奈の満開のしだれ桜桜と池越しの手児奈霊神堂 手児奈霊神堂境内の桜手児奈のしだれ桜と青空 手児奈霊神堂と桜と青空桜の名所手児奈霊神堂

手児奈を詠んだ和歌

万葉集 高橋虫麻呂の歌

勝鹿の真間の井を見れば立ち平し
水汲ましけむ手児奈し思にい
橋虫麻呂の歌 巻9 挽歌

勝鹿 葛飾 の真間の井を見ていると、水際まで平に踏みならして水を汲んでいたという、手児奈のことが偲ばれてならない。
橋虫麻呂は万葉集に手児奈を絶世の美人として歌い挙げています。その長歌の及歌(その長歌に添えた短歌のこと)がこの真間の井の歌です。真間の井は亀井院に現存する井戸とされ、すでに元禄9年(1696)に亀井院を修築した鈴木長頼が万葉集に歌われた古跡を後世に伝えたいと、弘法寺の日貞上人と相談して、その地に碑をたてました。
亀井院の入口に立つのがそれです。亀井院は古くは瓶井坊といわれましたが、この瓶井とは地中に水瓶を埋けたような形をして、水がこんこんと湧き出していたいたところから名付けたものと思われます。
「立ち平し水汲ましけむ」がその様子を伺わせています。
平成2年3月 市川市教育委員会
勝鹿の真間娘子を高橋連蟲麿の詠む歌一首 短歌を并せたり

鶏が鳴く 吾妻の国に 古にありける事と 今までに 絶えず言い来る 勝鹿の
真間の手児奈が 麻衣に 青衿着け 直さ麻を 裳に織着て 髪だにも 掻きは梳らず
履をだに 穿かず行けども 錦綾の 中につつめる 斎児も 妹に如かめや 望月の
満れる面わに 花の如 笑みて立てれば 夏蟲の 火に入るが如 水門入りに 船漕ぐ如く
行きがぐれ 人のいふ時 いくばくも 生けらじものを 何すとか 身をたな知りて
波の音の 騒ぐ湊の 奥津城に 妹が臥せる 遠き世に ありける事を 昨日しも
見けむが如も 思ほゆるかも
(巻9―1807)

反歌
勝鹿の真間の井を見れば立ち平し水汲ましけむ手児奈し思ほゆ
(巻9―1808)

万葉集 山部宿禰赤人の歌

葛飾の真間の入江にうちなびく
玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
山部赤人の歌 挽歌
この歌の「真間の入江」とは、市川市北部を形成する下総台地とその南につくられた市川砂州、現在の国道14号と京成電鉄が並行して走っている地域との間にできた入江のことです。それは、現在の江戸川に開口している真間川の河口付近から、須和田、菅野、国分、北方、柏井、大野にわたる低地一体に広がっていたもので、柏井と大野を結ぶ「浜道」は、ある時期入江の岸部にあったと思われます。この入江に生えている美しい玉藻を、手児奈が水に入って刈っている情景が偲ばれます。玉藻は食料にしたものか、あるいは神に捧げる神位であったのかはよく分りません。
平成2年3月 市川市教育委員会
勝鹿の真間娘子の墓を過ぐる時、山辺宿禰赤人の作る歌一首 并に短歌

古に 在りけむ人の 倭文幡の 帯解きかへて 伏屋立て 妻問しけむ 葛飾の
真間の手児名が 奥つ城を こことは聞けど 真木の葉や 茂りたるらむ 松が根や
遠く久しき言のみも 名のみもわれは 忘らゆまし。
(巻3―431)

反歌
われも見つ人にも告げむ葛飾の真間の手児名が奥津城處
(巻3―432)
葛飾の真間の入江にうちなびく玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
(巻―433)


抜粋
「万葉集の真間の手児奈の歌」真間史蹟保存会案内板より
市川市作成案内版より

さだまさしさん寄贈の「縁結び 桂の木」

縁結び桂の木案内井版桂の木と手児奈霊神堂

奉納「縁結び 桂の木」

桂の木は縁結びの木として霊験が顕著といわれています。
この桂の木は昭和56年7月26日第3回市川ほおずき市に、当時市川市に在住していた歌手さだまさしさんが奉納されたものです。
また、手児奈霊神堂には、安産・子育てに殊更ご利益があると伝承されている「手児奈霊神」がお祀りされています。
真間山弘法寺

桂の木下案内板より抜粋(左写真)

吉田冬葉と真間の手児奈

吉田冬葉 (1892−1956)

大正から昭和に活躍した岐阜県中津川市出身の俳人。本名吉田辰男。東京で大須賀乙字に学び,「石楠」創刊に参加。大正14年「獺祭」を創刊を主催し、生涯この経営に当たる。また絵画もたしなみ、旅行を好んだ。晩年、市川真間の手児奈霊堂近くに住む。
  • 真間川の潮どきながす飾かな 「獺祭」昭和24年(1949)2月号
  • ふるさとの山静かなる師走かな 手児奈霊神堂歌碑より
句集に「冬葉第一句集」「故郷」「望郷」等。


参考
手児奈霊神堂ホームページ
真間山弘法寺ホームページ
市川市ホームページ
市川市図書館ホームページ
真間山弘法寺内案内板
真間史蹟保存会監修案内板
改訂新版「市川のむかし話」
新訂「江戸名所図会6」ちくま学芸文庫
房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第8卷葛飾紀
房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第6卷葛飾誌略
美術人名辞典
デジタル版 日本人名大辞典
ウィッキペディア

真間山弘法寺へのアクセスマップ

  • JR総武線・総武快速線「市川駅」徒歩15分
  • 京成本線「国府台駅」・「市川真間駅」徒歩10分
手児奈霊神堂
千葉県市川市真間4ー5ー21

弘法寺と万葉の里真間


手古奈霊堂

手児奈霊神堂