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真間の継橋 万葉集に歌われた

真間の継橋
真間山弘法寺仁王門前の石段の下、JR市川駅から真間山に通じる大門通り、真間川と石段の間に赤い欄干の「真間の継橋」があります。橋と気づかずに通り過ぎる程の小さな橋です。元々は両岸から板を延ばし中央の梁で繋いだのでツギハシと呼んだそうです。江戸時代には真間山参道の並木道のなかの板橋だったそうです。万葉集をはじめ勅撰集など昔から多くの歌人に歌われた「真間の継橋」。真間の継橋は江戸名所図会、葛飾誌略や葛飾記に紹介され、広重の江戸名所百景にも描かれた、風光明媚な江戸時代人気の観光名所でした。万葉集などには、真間の地は「真間の入江」「真間の浜」「真間の浦」など、海岸沿いの風景を思い浮かべる言葉で表されていますが、江戸名所図会には橋の描写は特になく、広重の江戸名所100景には簡素で欄干もないような板橋がかかっているように描かれています。江戸時代にはすでにその面影はなかったようです。
真間の継橋は万葉の里「真間」の入口のようです。

真間の継橋

真間の継橋
その昔、市川市北部の台地と、その南に形成された市川砂州との間には、現在の江戸川へ流れ込む真間川の河口付近から、東に向かって奥深い入江ができていた。この入江を「真間の入江」とよび、手児奈の伝説と結びつけて伝えられた「片葉の葦」やスゲ等が密生していた。
国府台に下総国府の置かれたところ、上総の国府とをつなぐ官道は、市川砂州上を通っていた。砂州から国府台の台地に登る間の、入江の口には幾つかの洲ができていて、その洲に掛け渡された橋が、万葉集に詠われた「真間の継橋」なのである。この継橋は
「足の音せず行かむ駒もが葛飾の
真間の継橋やまず通わむ」

(足音せずに行く駒がほしい、葛飾の真間の継橋をいくつも手児奈のもとに通いたいものだ)の歌で有名となり、読み人知らずの歌であるが、当時の都びとにまず知れわたっていたのである。
この真間周辺には継橋をはじめ、手児奈の奥津城(墓)、真間の井など、万葉集に詠まれた旧跡が多い。これらの旧跡も歳月が経つにつれて、人びとの間から忘れ去られていくのであるが、これを憂えた鈴木長頼は、弘法寺の17世日貞上人と議して、元禄9年(1696)その地と推定される位置に碑を建て、万葉の旧跡を末永く顕彰することを図った。この碑がいまに残る「真間の三碑」である。
昭和58年3月 市川市教育委員会


参考文献並びに抜粋
真間の継橋案内板
真間の継橋脇(平成2年3月 市川市教育委員会)
真間川沿道(昭和58年3月 市川市教育委員会)

真間の継橋を詠んだ和歌

日蓮歌碑 真間の継橋万葉歌碑 真間の継橋

万葉集

足の音せず行かむ駒もが葛飾の 真間の継橋やまず通わむ

新勅撰 慈円の歌

勝鹿やむかしのままの継橋をわすれずわたるはるがすみかな

風雅集 雅経の歌

五月雨に越え行く波はかすしかやかつみかくるる真間の継橋

千載集 源俊頼朝臣の歌

かき絶えし真間の續橋ふみ見れば隔てたる霞も晴て向へるがごと

風雅集 朝村の歌

かつしかのままの浦風邪吹きにけり夕波越ゆるよどのつぎはし

新後拾遺集 従三位定子の歌

うつゝとて語るばかりの契りかはあだなる夢のまゝの續はし

続後拾遺集 贈従三位為子の歌

扨も猶かよはばこそは頼まれめ絶えしといひしまゝの續はし

土御門院御製

夢ならで又や通はん白露の置き別れにし真間の續はし

頓阿上人

山人の道のゆきゝの跡もなし夜ふくる霜のまゝのつぎはし

日蓮聖人

ここに人を渡しはてんとせしほどにわが身はもとのままの継ぎ橋

鴨長明

こものはにすだく蛍のほのぼのとたどりぞわたるままの継橋
かつしかやかはぞひうつぎさきしよりなみよりかよふままのつぎはし
かつしかやかはそひうつきさきぬらし浪よりつたふままのつぎはし

藤原定家

わすれられぬままのつぎ橋思ひねにかよひしかたは夢にみえつつ

源実朝 鎌倉幕府第三代将軍(1192〜1219)

かち人のわたればゆるぐかつしかのままのつぎはし朽ちやしぬらん

太田 道灌

武士のいくさの場の勝しかや国はこころのままの継ぎはし
武士の軍のにはにかつしかや花はこころの真間の續橋

参考
真間の継橋脇歌碑
市川市ホームページ
市川市図書館ホームページ
真間の継橋案内板
「江戸名所図会6」ちくま学芸文庫
勝鹿図志手ぐり舟 ホビット社
ウィッキペディア
房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第8卷葛飾紀
房総叢書 : 紀元二千六百年記念. 第6卷葛飾誌略

万葉集と真間の継橋を詠んだ歌人

万葉集

万葉集は奈良時代に編纂された現存する最古の和歌集。短歌、長歌、旋頭歌、仏足石歌、連歌の五体により、20巻4536首の歌集です。万葉集の成立時期について詳しくわかっておらず、奈良時代末期と考えられるが、平安時代前期に手が加えられている可能性もある。また、編纂者についても諸説あり、勅撰説、橘諸兄、大伴家持などあるが、現在では家持編纂説が最有力とされている。もっとも、万葉集は一人の編者によってまとめられたのではなく、巻ごとに異なる物に編集され、最終的に大伴家持よりまとめられたと考えられています。
仁徳天皇の皇后磐姫の作といわれる歌から、天平宝宇3年(759)大伴家持の歌まで約400年にわたる全国各地、各階層の人の歌が収められる。額田王、柿本人麻呂、高市黒人、山部赤人、大伴旅人、山上憶良、橋虫麻呂、大伴坂上郎女、大伴家持らが代表歌人であるが、これれの皇族、貴族、官僚歌人のほか、農民などの歌もあり、東歌・防人の歌などを含み、地域的にも、大和を中心とするが地方の歌も多く、豊かな人間性を素朴・率直に表現した歌が多い。奈良時代およびそれ以前の歌の総結集であり、日本最大の古典として現代にいたるまで広く愛読されている。
万葉集は、日本文学の第一級の資料というだけでなく、防人の歌や東歌など地方の出身者の方言による歌も収録され、日本語の成立や方言を研究はもちろんのこと、日本の歴史や地理、文化の成り立ちを研究する上でも最重要な資料です。


山部赤人

山部赤人は奈良前期の三十六歌仙の一人で万葉集の代表的な歌人。後世、柿本人麻呂とともに歌聖と呼ばれ称えられている。
山部赤人の経歴は史書に名が見えず、下級官吏であったと思われる。神亀1年(724)年から天平8年(736)に和歌の作品が見え、また、聖武天皇の吉野その他への行幸に従駕した際の歌が多く、聖武天皇の時代の一種の宮廷歌人的な存在であったと思われる。ほかに諸国への旅行で詠んだ歌も多く、自然の美しさや清さを詠んだ叙景歌で知られ、その表現が周到な計算にもとづいているともいわれている。同時代の歌人には山上憶良や大伴旅人がいる。万葉集に長歌13首、短歌37首が収録されている。
小倉百人一首にも「田子の浦にうち出でて見れば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ」が収められている。
山辺赤人と表記されることもります。
滋賀県東近江市下麻生町には山部赤人を祀る山部神社と山部赤人の創建で終焉の地とも伝わる赤人寺が隣接して建っています。山部神社には、赤人の歌を刻んだ石碑があり、赤人寺には、赤人桜と呼ばれる桜の木と、国指定重要文化財の鎌倉時代に建てられた七重石塔が残されています。なお、赤人の墓と伝わる五輪塔が奈良県宇陀市の額井岳の麓にもあるそうです。


高橋虫麻呂

高橋虫麻呂は奈良時代前期の万葉歌人。天平期(729〜749)の初め、朝廷に仕え、後年は地方官として常陸国に赴任しました。天平4年(732)藤原宇合が西海道節度使として遣わされたときの送別の歌を送っています。下級官吏と考えられ、正確な経歴はは残っていません。地方官として東国に下り、常陸国に住んでいたと伝えられています。藤原宇合の下僚として「常陸国風土記」の編纂に関係していたとする説もあります。
高橋虫麻呂が歌に詠んだ地域は、常陸国から駿河国にかけての東国と、摂津国・河内国・京などで、常陸国に赴任した時期に書いたと思われる「筑波山に登る歌」や東国の歌が多く残っています。伝説を題材にした長歌や短歌も多く、下総国真間(千葉県市川市)の手児奈の歌や、摂津国葦屋(兵庫県芦屋市)の菟原処女の歌、水江浦島子など、 地方の伝説を詠んだ歌などがあります。 万葉集に長歌14首、短歌19首、旋頭歌1首を残しています。


参考
滋賀・びわ湖観光情報ホームページ
東近江市観光協会公式サイト東近江観光ナビ
デジタル大辞泉
ブリタニカ国際大百科事典
百科事典マイペディア
デジタル版 日本人名大辞典
朝日日本歴史人物事典世界大百科事典
日本大百科全書(ニッポニカ)
ウィッキペディア

真間の継ぎ橋の所在地と交通案内

真間の継橋の最寄り駅と住所

  • JR総武線・総武快速線「市川駅」徒歩15分
  • 京成本線「国府台駅」・「市川真間駅」徒歩10分
  • 千葉県市川市真間4ー7ー24

真間の継ぎ橋近くの観光名所


真間の継橋

真間の継橋




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